とってもゆかいでたのしくておもしろいうれしさ!

2012年01月27日

その一

 僕は知らない。知らないが、名前というものはどことなく輪郭を、それは飽くまで空想的なものではあるのだが、もっている。しかし空想的とは言っても、本を開くと出てくるのは誰か。話者は誰か。僕はある名前に押し付けた空想に照らされて歩くことになる。だからある名前について、作家論のごとく何か言えることはなくて、ただ今度はどれくらい疲れたとか、どれくらい歩いたようだとか、そういった、散策の一風景を覚えている。問題は何を言っているのか聞き取ることではないと思う。一つの真実が世界となって提示されている、それを後景として歩き回ることは、希薄な体験なのである。
 本の背を眺めながら、さてそろそろ本屋から出るかという時間になってきたとき、見知った名前が目に付いた。荒地である。エリオットの名前を目にすることは多いが、実際のところ、この名前と他人の思い入れ以外を見かけたことはなかった。エリオットという名前の表象は誰か彼を語っていた者のうらぶれた生活感そのもので、その地下倉で空を描くような陰気さに満足しているようすを僕は嫌悪していたのだった。それからいくつか挿話も知っていたが、自身、おそらく見えることはないだろうと思っていた。しかし表紙を眺めているうち、手に取ってみたくなり、その時にはもう決まっていたように思う。本を買う際には、必ず衝動があるものだ。本屋に行っても自らに隙のないときはぶらつくだけぶらついて帰ってくるが、隙のあるときは、そこにすっと入ってきて落ち着いてしまうものがでてくる。荒地とTSエリオットを本棚に並べておいて、いつか取り出したくなって取り出すとき、そのときの何か柔らかな光に包まれるイメージが浮かんだ。それで、その気のない本を入手してしまった。元の嫌悪感はむしろ半透膜として機能したのかもしれない。帰宅すると、アドレス変更メールが来て、古いほうのアドレスにはエリオットの文字が入っていた。
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2012年01月22日

2012年01月16日

体験レポート18

 並んで歩いていた人が、立ち止まって、電話している。並んで歩くことは内部に立つことで、並んで歩く人はその片目であり片翼だった。僕は左半身を失って風に吹かれるがまま取り残されている。信号機のぼんやりした赤を見詰めている。そして信号が青に変わり、電話は終わり、そこを境にして僕たちは別れていく。僕はすでに謝罪のようになってしまったお疲れ様でしたを呟く。すでに竦める肩も残っていない。カラオケ、とその後は何を言っていたか覚えていないが、とにかく列になって、僕は死んだ目に戻る。

 何千人居たのかわからないが、そのうちの誰ともすれ違わなかった。外に出ると、間違いなく温度的の理由で僕はぶるぶる震えどおしだった。座っているとわからなかったが、蓋を開けてみれば誰にも個性があったのだと言っていい。みんな人生を賭けている等と言われるたび笑い飛ばしていたが、実際どうだったのかは判然としない。軽い人も居れば重い人も居た、と言えばいいのか。結局僕は誰とも何をも共有することなく、共有を思うこともなく、背景化していたのだった。あるいはまるでその敷地が、人が溢れていてとにかく寒いそのフィールドが僕の背景のようでもあった。客席から見ればすれ違っているのだが、前景と後景とではすれ違い得ないのである。寒いと思うことすらない、反射的に寒い、寒いと言い続け震え続けるしかない寒さだった。

 人生といえば、みんなが、必死あるいは必至の形式をとっていた。電車には誰も居なかった。弁当を配給されるために並んで震えながら笑って話している人たちの脇を、震えながら抜けた。彼等の時間の大部分が、この催しのためにあったのだと考えると、それは人生となってしまうことを避けられない。人生というのは未来のための過去を現在生きている、その道筋のことである。だから人生を賭けるというのは、その言葉を採ることによって人生が存在してくるような類の話で、賭けることではなく賭けたと思うことによって人生を存在させることのほうに重点がある。一人で食堂に来ている人は居なかったが、きっとこの内の多数がみんなの中で孤独なのだと思いながら、冷たいおむすびを食べていた。むしろ孤独とか寂しいとかいうのは独りで居ると味わえないと思う。寂しさがある空白に向かうのに対して、奪い取ることへの熱烈な欲求がある。食堂の外では父兄が屯していた。

 ほとんど夜になった雪道のなかを二列になって進んでいく。いちばん最後に出てきたはずがなぜか行列の中にいた。音を立てて吹き来る風。僕は誰かに風除けになってもらおうと思い、歩道の端側を歩いた。するとそこに知らない子が入ってきた。吹雪は緩和されたように思えたが、何も知らないで風除けになっているんだと悪い気がした。しかし声は掛けなかった。名前も顔も声も何も知らない人たちと、このようにしてすれ違わない。そして、この時には別れていくのだと思ったが、実際別れることさえできない。憶えているか忘れるか、この単純な在り方しかない。街灯のなかを、何人かとすれ違わなかった。転倒して盛り上がっている人たちの脇を、滑りながら抜けた。分かれ道で分かたれていく列を見送った。あのとき、誰もが列になって歩いていたはずだが、でも誰も居なかったように思えるし、僕も居なかったように思える。それとも、あの歩行を憶えている誰かがいるだろうか。

 連絡すると、部屋に来て善いとのことだった。問題は邪魔かどうかという回答より、真実として、どちらを採ればよいかということだった。しかしそれはきっと誰に聞いても判らない。あるいは本人の真実は本人がもっていると言えるが、どうもそのように思えない。しかしそうすべきという意見のあることは理解している。察知できない人ほど言葉を重視する、という説について最近考えていたが、言葉は真実を語っている。少なくとも僕の言葉は僕の手元にある事実を語りはする。しかし文字は事実も真実も語らない。それは音であって単一の意味であるから、この説の言葉とはこのことだろうと思う。しかし実際的な可否の問題について言えば、必要なのは真実より個人的確信である、つまりこれで何が起きても一向構わないという点まで進められた検討である。むろん真実があればそれでよい。そこに拘泥するのは、当たり前と思って許可なしに進むと大変な目に遭うからだが、しかし相手のして欲しいことをするのが本意だろうとの説もある。ただ僕はそうではないと考えている。誰もが端的に行為すべきで、相手によって規定される自己があってはならない。したくないことをしないのが自由という話があるが、その拒絶や抵抗こそ必要なのだ。ついでに言えば、それら負方向の負荷によって崩れるのが関係性である。拒絶を過去として、一緒に歩き直してみるとき、そこには個があると思う。これが誰でもよさに対する一つの主張となる。ただしこれは過去を扱うものであるから、十分なものではない。

 徐々に疎らになりはじめた行列の向い側を歩いている。久々に内部に立った、と何回か繰り返した。僕は真っ白になっていて、打ちのめされたという感想しかなかった。それは彼等の立場、視座に立つことであり、彼等と共に在る感情の形式に追随することだった。他者のルールの中で生じる感情、喜怒哀楽といったものは一切相手にしない。しかしここで味わっていたのは明らかにそれで、僕は生の波に溺れかけていたわけだった。彼等の力強さは恐ろしいほどのもので、後ろで誰かが、この道はみんなに踏み固められているから滑るんだねと言って、それは軍靴であり、意味がわからないという表情であり、そして純良なる幸福であった。人は、否彼等は、戻ることの能わない不可逆の道を往っている。僕はしばらく帰ることができなかった。もしかすると未だ帰っていないかもしれない。辛いラーメンを啜りながら時計を見ていた。五時十分だった。
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2012年01月10日

連続と離散について

 はたして物語は終らないのか。物語は終る。物語の連続性は最後の句点で断たれている。終らない物語はない。しかし、再び書き出されるときに、世界は再び出現する。知らない世界が運行している、確かにそうだ。しかし前の世界と今度の世界が連続してはいない。世界はつねに分岐していると言いたいのではない。書き出されるときに出現する世界は、つねにばらばらの世界なのである。言うなれば、世界は離散的にしか存在しない。連続的の道は物語とともにあるが、物語はつねに断たれている。つぎはぎがあるなら、すでに連続性は破綻している。

 連続の先には破滅があり、破棄によって離散は形成される。鋭利な書き出しが他人を出現させる。鋭利な書き出しが自らを突き飛ばす。破棄すること。破棄して、再び書き出すこと。
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2011年12月29日

三時三十分

 夜だけが訪れる。暗い喜びのような受け布に、静かにつつまれている。錆びた金属の上を、暗さでぬるまった雨が流れ落ちていく。日々はあきらかに失われていて、画面の明るさだけが窓であり、何ものも追いついてくることはできない。本物の暗さのなかで、外に目をやる。Enter音はトラックにかき消される。濃い夜を淹れてあげたい。何を言っても同じ意味しか為さない言葉を選んでいる。文学的感傷などはない。外部に人はいない。結果から導かれる過程に人はいない。その内部性からやってくる呼吸の音を見て静かに沈み込む。

 雪が元旦へ降ってきて、ああ一年終ったんだと思う、そのふり返る後ろだけが一年の意味である。風景は何も告げない、元旦の夜明けを歩いていく。ふり返ると人は小さい。遠ざかる人だけが今年は見える。
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2011年12月01日

ちく天コーヒーの話

 スターバックスをのぞき込みながら歩いている。いつも思うのはこの場所よりよい場所はなかったのかということで、いつ通ってもこの空間には満足げの表情が満ちているように思う。ここしかなかったのか、との思いは二人組に対して向けられているが、砂漠色の紙袋の横にふた付きのコーヒーを置いてスマートフォンの画面を見詰めている、そんな風景にも疑問の矢は飛んでいく。そこには談笑が満ちている、あるいは、ひとときがある、と言ってもいいのだろうが、僕にはどうしてもそれが信じがたい、スターバックスに流れる時の信頼を打ち消すかたちに僕はそれを信じていない。むしろ、狭苦しい駐車場だとか、薄暗い境内だとか、無人の無人駅だとか、もちろんそこにもある種の奇病というか希望はあるわけだが、せめて雑踏から隔離された雑踏、あるいは豚小屋から隔離された豚小屋のようにして異様な熱のこもっているあの雰囲気に迎合することだけは避けたい。

 結局あのような建物のなかでは、私たちの固い友情は電気に照らされて明るみに出てしまう。それには溶け出したままどこかへ行ってしまうという意味もあるが、ただドーナツ片手に語られる友情というものの、その安さに耐えることができない、そしてどれだけの何かが費やされても値付けということのそのものを超えていくことができない。私たちは明るいテーブルで、甘い物を甘いと言って楽しく過すことになってしまい、それは言ってみれば未来に向かって虹色の光を投げかけることだし、先を明るく歩いていこうとする姿勢、光源を用意することに他ならない。どれほど、この惨めなものたちがどれほど、用意されていた光の道から産み落とされたかわからない。

 本屋のレジでは太ったひとが汗を拭いている。うどん屋では不良生徒がちくわを食べている。駅には漬物のにおいと鈴の音が充ちている。電車には無色の傘が落ちている。そして珈琲屋には珈琲屋の風景がある。もっとショーウィンドーから離れて歩きたい。
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2011-12

断☆片

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2011年11月16日

踏み切の溝に宛てて

 こんなのまだ雪じゃない、と言いながら水っぽい雹に打たれていた。秋田では昨日から雪が降る雪が降ると云われていて、初雪はすでに観測されている、しかし今日はまだ弱い雨なのだと思い込んでおきたい。

 今朝電車のダイヤが乱れ、誰もいない車内で僕が寝そべる機会を得たのは人身事故によってだった。周りには、電車を止めた事例はあったが実際死んだ奴は未だいない。僕はこれだけ多くの人々を足止めしたら、せめて貴方の年月程度にはなったろう、それで満足するのだろうかと思っていた(しかし今計算してみるとそんなことはなかった)。首都圏での飛び込みはよく聞こえるが、はたしてどちらが重いのだろうか。かれの死が消費する時間に依って重さなどというものが生まれるものだろうか。そして差異があるのかどうか。まあそれはいい。

 このまま明日になっていたならこの死は、ただ僕の疑問、撥ねられ飛び散った肉体はどのように処理されるのか?(トングで拾い集められるのか?)ということだけを残していっただろうと思う。しかしニュースは、読み上げられなかった字幕は、女子高校生の文字を映していたのだから話は変わってしまった。

 ほんのちょうど、最近は高校生について考えていた。はたして高校生程度が自分のすることを決めうるのかどうか。また中学生(!)による、高校受験(高校選び)がけっきょくは進路という名前のレールを敷いてしまう、そしてレールをレールとして破壊することを、やはり先の高校生程度が決めうるのかという話、このところは、大体こんなところに居た。僕は"物心がつく"という表現を採っているのだが、これはごく偶然的なものであって高校生だから物心がつくとか大学生だからとか、所謂大人だからとかそんなものでは全然ない(あるいは可能性の差はあるかもしれないが)。だからこの女子高校生にしても、きっと自分が何であるのか、ないのかもわからなかったのではないか、そんな風なこと、一言でいえば寂寥が、そして遮断機の黄黒や赤いレールに執着した肉片を洗い流すであろう弱い雨を一緒になってありがたがってしまう気持ちにとらえられているのだ。さらにはそれが全く不愉快ではない、むしろかの死は僕に快楽的な使命感を与え、僕は私立探偵を気取って花を踏みにじりに行く。そして溜め息をつく。これで上々だ。

 もちろん事故かどうかなんてどうだっていい。ただいまはこの雨をともにありがたがろう、接触の瞬間のリアルさはどこへ行ったのか、そして僕でさえ真実を知りえないという去っていってしまったものへの親近感を少し嬉しく思いながら、まったく見ず知らずの元-存在を桐箱の中に待っている。最後にこれは日記なので書いておくと、今日は初めてストーブを点けた。
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2011年11月14日

夏目友人帳ともののけ姫

 不親切ではあるが、夏目友人帳、もののけ姫がどんなものであるかという概括はしないことにした。はじめに述べてもよいのだが、今回はそれが目的ではなく、また「見れば判る」ことをくどくど述べても仕方がないからである。見た方は判るし見ていない方は説明しても判らないだろう。

 僕が思ったのは、夏目友人帳は人を「求める」ほうで、もののけ姫は人を「拒絶する」ほうなのだということだった。というのも、夏目友人帳の主人公はこれまで人々から拒絶されてきながらも人を希求しているわけだが、もののけ姫の主人公(?)は同じように人々から拒絶され、自らも人を拒絶しているからである。この、同条件下にありながら対応が正反対であることが何を惹起するかということが今回のテーマである。

 夏目友人帳が末永く続く終らない物語のような形をとっていることは、おそらく先の人を求める態度に起因するのではないだろうか。もののけ姫を考えてみると、それは主人公が(対外的な)拒絶から一転したところで締められている。それはまるで拒絶に一本の光が差したかのようである。しかし夏目友人帳を考えてみると、主人公による拒絶は無く、逆に人を求めているのであって、それは先の一本の光のイメージとはまったく異なる。

 もののけ姫の完結が一本の光によるものであるとするならば、主人公は一本の光を求めていたということになる。これはおそらく順当な読み過ぎだろうが、拒絶にはつねに別のものが付随していて、あるいはそれだけが求められている。しかし外から見てもそんなことがわかるはずもない。

 その点から言うと、夏目友人帳には拒絶に付き従うような不可視的な希望が無い(控えめに言えば、未だ無い)。つまりそれが意味するのが終らない物語であり、主人公が変化しても世界が変わらない物語である。それは、もののけ姫が完結したこと、すなわちあの後は消化試合にしかならないということとは反対なのである。

 もののけ姫の世界の変化の重さは主人公の重さだろう。眼を開ければ世界は明るくなっていき、それが世界の変化というか、世界を獲得することなのだ。それはまた、言い換えれば0から1への変化である。対して夏目友人帳は世界を獲得しない。積み重なるものが積み重ねられ、世界に対する視点を獲得していく。それは1から他の数への変化である。無と有とで語られるのが絶対であり、有と有とで語られるのは相対である。以上で結論が出せると思う。
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2011年11月01日

便臭の一風景

 いつものように思いなやみながらただ一つの空席に着く私の精神の情動がしなやかに開花したのは、発車一分前、それより三十秒ほど前に息せき切って乗り組んできた一団のなか、一人のおっちゃんのひらひらするハンカチの裾から、ふんわりとした、善意の風としか思えない便臭の風が鼻腔の奥をさするとともに私の血液が拒絶を示して凝固したそのときだった。私は正面に見据えていた、眠っているおっちゃんの白髪頭を思うしかなかったのだし、なおやわらかに漂っている便臭のその元をたどったときには、彼の平滑さを――彼ははげ頭でもあった――思うしかなかったのだ。この眠るおっちゃんの下方へと引き延ばされ繰り返された深い溝の存在は私の目尻を低く低く誘っていった。溝の平滑さを私は思った、深く深く繰り返されるほど平滑化していってあの小さな世界に代価として不幸を浴びせかける、例の低みへ向かって曲がった皺を分析に掛けてやりたかった。いつの間にか電車は発進していた、電動機の音が鈍く届いて僕は向うに居る十九才の女の子の唇の花弁を見た。

 息を吸う数度に一度やってくる馨しさは僕から彼等に向かって絶望的に降り注いでいる斉射された矢と等量か、あるいはいくらか少なかったが、その重みは瞼を閉じさせるには十分で、抵抗が弱まったとき僕は何度か目を閉じた。相変わらずおっちゃんは眠り続けていて、正面からは絶えず空気が送り込まれている。次に見たのは開かれた本だった、それはこの正面の開きっ放しでいる通風口に対する冷笑と嫌悪とリンクしていたのか、読書家のトレンチコートに向かっても弓は引き絞られた。ページ上部に図書館の判が押されているのが見つかると即座に本はハードカバーではなくなって、おっちゃんを守れなかった。アフターファイブの読書家もまた重機の下敷にされたものに数え入れられた。私は轢き潰したキャベツを振り返りながら求めるべき助けを懇願するように彼女を見た。

 誰も乗ってこないまま電車は再発進してしまい、今度は高校生のローファーを借りてきたおっちゃんの靴下の藍色と三人並んだ彼等の髪から共通して喚起されるイメージとによって僕はより嗜虐性を指向していくのを感じる、彼等の平滑さに、ああ、ああ!と叫び出しながらも声と口端とは音もなく澱みのなかに沈みきって見えなくなり、汚泥にまみれたことで成功した偽装が残酷に加速させている。僕はこの便臭について書かなければならないと思った、手加減なしにこの便臭を便臭と呼び、彼のもつ幸福をここで書ききらなければならないと思った。ただもちろん彼に幸福などは無く、彼や人々の周縁を回る惑星のような種々の物事についてニュースキャスターとなって発話するだけの機能を持っていてそれを信じている、そしてそれを信じていることさえ知らないのだ。この夜を越えてアサガオがゆっくりと開いたり閉じたりするその間にも彼女はずっと携帯を弄っている。

 大勢が乗り降りしておっちゃんが座り僕は一つずれた、そして車両の床は中心線上だけが黒ずんでいて、そこにはすでに誰も立ってはいない。期待通りに期待は裏切られて便臭は流れてくる、おそらくもっと先まで拡散していく。さらにおっちゃんの喉でトラクターが走り出し僕はたじろいだ。ああ、ああ!と発作が起きて助けを求めた、すると先のローファーと革靴、ズック靴の三足の並びと電灯の反射の仕方の違いに発作を収束させることができるとの確信が浮かび上がった。靴はどれも半分汚れていて、僕はあの引用された檸檬の一節を思い起こしながら曇った電灯を眺めた。少しするとこの床がいつも見ている床ではないと気づいた、僕は初めて床に親しみを感じて何度か窓と見比べたのだった。

 そのうち、すべてが静止したまま列車は着いた。降りても気分は晴れなかった。
posted by aaaaa at 23:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする